京都外国語大学・京都外国語短期大学

多彩な20代を経て、
2回目の大学生

  • 英米語学科 4年次生
  • 原澤 里奈 さん
  • 2016年2年次編入
  • 2018.11.16

超ギャル時代、ハワイへ

学生時代、京都の某大学の経営学部に通っていましたが、その頃の私は、毎日の授業をどうさぼるか、そんなことばかり考えて学生生活を送っていました。ファッションが大好きで、京都駅近くのアパレルショップでアルバイトをしているとき、同じフロアの水着ショップの社長から声をかけられ3年間店長を勤めました。ギャルファッションの圧倒的頂点に君臨する渋谷109、その店舗と競い合うほど好成績を出していたんですよ。親にも相談せず、大学を辞めて店長業に専念。

そして、ハワイ支店オープンの話が舞い込んで来ました。英語も話せないのに、自らハワイ支店の店長になりたいと手を挙げて、思い込んだら即行動。1年間ハワイで準備しますと、自費でハワイの語学学校へ留学しました。しかし、ハワイ店の話は頓挫します。他のチームに出店が決まってしまったのです。社長からは帰ってくるように言われましたが、「このまま辞めます」と言ってハワイに残り、引き続き語学学校に通いました。

現地では年下の彼氏も出来て、一時は結婚も考えました。でも、フィアンセビザを取ることが大変で、しかも9・11以降ハワイの移民局はどんどんきびしくなっていた時代でしたから、このままハワイに住むことは難しいと思いました。9歳も年下の彼氏でしたし、しばってしまうのもかわいそうで。結婚も諦めて、3年間のハワイ生活にピリオドを打って日本へ帰国することにしました。

伏見稲荷大社の本山で巫女、山籠もりを経て京都外大

伏見稲荷大社・摂社の三ノ峰が実家で、跡継ぎのため巫女になりました。 伏見稲荷大社は、外国人に人気No.1の観光スポット。学んだ英語は、とても役に立ちました。山に入って8年が過ぎたころ、「これからずっと山?!」と、不安な気持ちになりました。私は一生、山で生きるのか?華々しい20代を振り返り、ここ(山)はないな、って思い始めたのです。ハワイにいたころから児童英語教育をやりたいと考えていた私は、夢を諦めきれずにいました。「山を下りてもいいよ」と母の言葉に背中を押されて、京都外大へ編入を決意。

18歳の学生たちと肩を並べて授業を受けることは不安でした。本も読んでこなかったし、ちゃんと先生の話も聞いてこなかった20代。最初のテストで高得点が取れたことが励みになり、がむしゃらに学び続けました。自分で学費も支払っていますから、まじめになれて(笑)。

倉田誠先生との出会いで、英語観みたいなものがかわりました。基本動詞だけで創造性豊かな英語表現を繰り出す先生の授業に、すっかり魅せられて。卒論のテーマは、ディズニー映画に見られる方言についてです。子ども向けのアニメですが、悪者はアラブ系なまり、田舎者を表すときは、南部なまりの英語。キザな役はフランスやイタリアなまりなど、差別的な表現がはっきりしていて、研究題材として取り組んでいます。

10年後の私、どこで何をしているのかしら

大学を辞めようかと悩んだ時期がありました。3年次の春学期、母が病に倒れて看病のため休学しました。「無理のない範囲で、ゼミだけでも顔を出したら」と言ってくださったのが倉田先生でした。そのときは本当に救われた気持ちになりました。余命宣告を受けてから、ずっと寝る時も一緒に過ごした母。二人で生きてきた母が、ポツンといなくなってしまった。母が旅立って、無力感で外にも出れない気持ちでしたが、倉田先生が心配して電話をかけてきてくださり、秋学期がはじまるタイミングで大学に復学。これ以上にないほど勉強をして、GPAは4.00に。

20代の私は、自分中心でやりたいことだけをやって生きてきました。30代になって社会のために何か貢献したいと思い、NPOの里親プログラムにも登録しています。カンボジアで学校に通えずにいる子どもの学費を支援するプログラムで、私には小学1年生から支援してきた女の子がいます。年に1~2度、その女の子から手紙が来るのが楽しみです。手紙には「ママへ」と、いつも書いてあるんですよ。その女の子は今年6年生。来年、いっしょに卒業を迎えることになります。「ママも卒業したよ」って女の子に手紙を書きたいですね。

行き当たりばったりの人生ですが、結果オーライ。10年後は自分でもどんな未来が待っているか、わからないですね!どこでも生きていける自信があるので、どこか外国で暮らしているかもしれませんね。

赤十字活動の寄付金は20万円を超えて表彰されました。2016年で献血回数は100回に。カンボジアの里子のプログラムで支援をしている女の子から手紙が届くと、うれしいですね。

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